足ながおじさんEpilogue
           えにしだふう様 ご投稿作品
 
 
 僕は今まで知らなかったんだけどキスというものには惑溺性があって、特に大好きな人とのキスはどれだけしても足りなく感じるものらしい。

「…んんっ…」
 寝ぼけて予定とは違う台詞を口走った僕は、三日ぶりの先生をまず始めに唇で味わう羽目になった。噛み付くように先生が覆いかぶさってきて息苦しさに目は覚めたけど逆にこれは夢なんだろうかと疑いたくなる。先生の舌が、僕の舌に絡み付く。
「…っふ…」
 ちょっと離れたと思っても息を継ぐ隙もなくまたくちづけられる。どうしていいかわからなくて先生の首に手を回してしがみついた。
「…せんせぇ…」
 ようやく呼吸が自由にされて、やっと僕は先生の顔をまともに見ることができた。ああ、ホントに僕の先生だ。よかった、夢じゃない。僕は先生に抱きついたまま、先生の匂いを胸一杯に吸い込んだ。安心した僕に先生が意地悪く囁く。
「…ずいぶん洒落た台詞で迎えてくれたな。お前がこんなに積極的だとは知らなかったぞ」
 かぁっと頭に血が上る。
「ち、違っ…」
「あんないやらしい台詞、趙雲に習ったのか」
「違います!その、ホントは違うこと言おうと思ってて…」
 ん?と先を促すように、また先生が唇を寄せる。その優しい仕種に、僕はもっと先生のキスが欲しくなる。先生が僕の後ろ頭をその大きな手で支えてくれて。言葉の続きよりも今はただくちづけて欲しい。僕は自分から先生の唇に自分のそれを押し付けた。

確かに先生のメールには月曜に帰る、としか書いてなくて僕が勝手に月曜の夜だろうと勘違いしていたわけなのだがまさかこんな早朝だとは。良くも悪くもいろいろと予定が狂った僕は、ちょっとご機嫌ナナメだった。
「夜じゃなかったんですね」
「不満なのか」
「…せっかく先生が帰って来たらオムライスしようと思ってたのに」
 先生は拗ねる僕さえ面白そうに眺める。
「いいじゃないか、お前の唇の方がうまい」
 ぶは!!なんでそういう恥ずかしいことを…。僕は先生の腕の中から抜け出すと、せめて朝食は作ってあげようと決めた。

 何ごとも、一度してしまうと二度目三度目はたやすい。まあ実際はもうすでに何度目かもわからなくなっているが、先生は僕がコーヒーをいれたり目玉焼きを作ってる間中しつこくチュウチュウしてきた。うれしいし嫌じゃないけどさすがにちょっと欝陶しい。
「ちょ、やめ…」
 振り払おうにも「平、お前が誘ってきたんだろう?」と言われ撃沈。…そういえば先生はまたすぐに出張に行ってしまうんだった。僕は諦めて、しばらくは先生の好きなようにしていただくことにした。
 が。さすがに尻を撫でられては僕もこのまま先生のやりたいようにさせておくのはマズイと危機感を持つ。
「先生!どこ触ってんですか!」
「ん?どこ、と言うと」ここのことか、とパジャマのズボンに手を入れられそうになる。ぎゃあ!、先生の欲も失せよと色気ない叫び声をあげて僕は後ずさった。
「…なんだその反応は」
 呆れ顔で先生がため息をつく。ヨメとしての心持ちが決まったんじゃないのか、と片眉を上げる先生に僕は涙目で訴えた。
「…僕は…僕は先生のこと大好きです!ちゃんと、いつか僕の全部を先生にあげたい。なにもかも先生のものになりたいと思ってます。でも、でも…」
 格好よくて優しくて大好きな先生。僕のこのどうしようもない気持ちを、許してください。
「…今はまだ覚悟ができないんです。あとちょっとだけ、待っててください。絶対いつか先生に全部あげます、だから…」
 ハンプティダンプティが目尻から転げ落ちた。

 結局、'その時'が来たらちゃんと自分から先生にそう伝える、という約束をして先生には今日のところは勘弁してもらった。ただしキスは制限なし、というのが先生からの条件。自分の子供っぽさがホントに情けないが、仕方ない。先生に追いつけるわけでもないのだから先生に待っててもらうほかないのだ。ごめんなさいとありがとうの意を込めて、僕は背伸びをしてもう一度先生にくちづけた。

 一日僕と家で過ごし、最初の日と同じように二人で一緒に眠ると、明日の朝にはまたお別れになる。二人でシーツにくるまったベッドの中で、この三日間先生の匂いが恋しくて先生のベッドで眠っていた話をすると先生にはさも可笑しそうに笑われたが、代わりにこれからも毎日僕の眠る場所はここと決めてくれた。先生がいてもいなくても、先生のベッドが僕のベッド。うん、悪くない。
「…今度は何日間ですか?」
「明日は出張じゃなくて夜勤だ」
 先生がお勤めの大病院は、もちろん僕もかつてお世話になったところだ。
「手術、するんですか?」
「そうだ。明日一日で三件」
 大きな手術の後は患者の容態が安定しないため執刀医が夜勤するのは常だ。先生はお前ほどかわいらしい患者はいないから浮気の心配はない、安心しろ、とまた笑った。…どういう意味だ。僕は寂しいだけで患者に嫉妬してるわけじゃないのに。先生の広い胸板に頬をくっつけたままちょっと憮然とした。



 先生が帰って来る予定だった日の昼過ぎに、先生からメールが入った。
『緊急手術が一つ入った。悪いが今日は帰れない。廖化に俺の着替えと弁当を持って来るように伝えてくれ』
 先生には申し訳ないが僕はワクワクした。僕が先生に着替えとお弁当持って行ってあげよう。
「…だってヨメだしね」
 思わず声に出ていたがこの恥ずかしい独り言は幸い廖化さんには聞かれていなかったようだ。いそいそと準備をすると僕はバスに乗った。

 病院の匂いは懐かしいけどハッキシ言って嫌いだ。特に手術室の赤いランプは二度と出てこなかった両親を思い出す。手術は予定時間を廻ってもまだ終わらないらしく、患者の家族たちがやる瀬ない時間を過ごしていた。僕はそれを仮眠室前からこっそり見ている。…手術時間が長引くなんてよくあることですよとか、関先生は腕がいいから大丈夫ですよとか、あの人たちには何を言っても慰めにはならないのだ。長い廊下の向こうの突き当たりが手術室、こちら側の突き当たりが仮眠室。この廊下を行き来することで、先生は人の命と死の間を行き来してるのか。いまさらながらに先生のお仕事の凄まじさに僕は感じ入っていた。
 どのくらい経っただろうか。手術室の赤いランプが消えて看護婦さんたちが患者を載せた担架を運び出してきた。そのすぐ後から関先生が姿を現す。家族たちが喜びに泣き崩れる様子を見れば手術が大成功だったことは明らかだ。何度も頭を下げて礼を述べる家族たちの間を縫って、先生がこちらへ歩いて来る。
「…平、お前が来たのか」
 僕は黙ったまま頷いた。
 …ああダメだ。声が、言葉が出ない。先生にこの場所で命の続きをもらった僕。先生の緑の手術衣は所々に血の跡。胸元は汗で色濃くなって先生のたくましい胸板に貼り付いている。大変な手術の後で体温が上がった先生の匂い、濡れた唇、昨日のキス。僕の頭の中ですべてがぐちゃぐちゃに混ざり合って。経験がなくたって、はっきりわかる。これは、欲情だ。僕は今どんな顔で先生を見上げているのだろう。
「ん?どうした」
 乾いた唇を必死に動かして言葉を紡ごうとする僕に、先生が身を屈めて耳寄せた。僕は震える両手を先生の耳に添えると、掠れる声で子供の内緒話のように囁いた。
「…抱いてください」



 先生は今でも時々、部外者で仮眠室に入ったのは後にも先にもお前一人だ、とからかう。それを聞く度に僕は羞恥に身を焦がしながらも、あの時先生からほとばしっていた物凄い色気をこっそり思い返すのだった。


fin.