足ながおじさん 番外編 |
えにしだ |
|
夏休みももう終わろうという頃。暑くて暑くて溶けそうなある朝に知らない少年が訪ねてきた。 最近毎朝の日課になっている先生の見送り(と言ってもマンションの地下駐車場まで)を終えて部屋に戻ってきたと思ったら、すぐにインターホンが鳴った。やだな、先生ったら忘れ物?先生らしくない、なんてひとりごちながらドアを開けると、はたしてそこには見知らぬ少年が立っていた。 「…」 「…」 歳の頃は僕と同じか少し下くらいだろうか。集中ロックのマンションなのにどうやって入り込んだのか不明だが、会ったことがない少年であるのは確かだ。だけどどこかで見たことがあるような気もする気の強そうな顔。どちらさまですかと尋ねる前に向こうの方から無遠慮に尋ねてきた。 「あんた誰だ?」 挑戦的な口ぶり、顎をひょいと上げて目を細める不遜な仕種。…僕には彼のこの尋ね方一つでこの少年が何者であるかがわかってしまった。わかったが最後、あまりの可笑しさに笑いが堪え切れず腹がひくりと小さく痙攣する。少年は笑いを噛み殺す僕を見て怒った。 「ナニ笑ってんだよ。だいたいなんであんたはここにいるんだ?!」 怒るとますますそっくりだ。…もちろん関先生に。 「ご、ごめん笑って…。あの、君、関先生の息子さんなんでしょ。先生なら今お仕事に行ったから帰りは9時過ぎるけど」 「…」 少年は僕の言葉を否定も肯定もしなかったけど、先生の帰りが遅いと聞いて考え込んでいる様子からすると僕の勘は当たったらしい。しばらくして彼は僕を改めて睨みつけて低い声で言った。 「…で、あんたは誰なんだよ」 この子が本当に関先生の息子さんだとしたらいつまでもこんな玄関先に立たせておくべきではない。僕はとりあえず彼を部屋に招き入れた。 今日は家政夫の廖化さんはお休みの日。僕もそれなりの家事はできるつもりでいるから特に困りはしないが、少年にコーヒーは嫌いだカルピスがいいと言われてもどこにあるのか(そもそもあるのかさえ)わからなかった。とりあえず麦茶で我慢してもらうと、僕は彼に話しかけてみる。 「…名前、何て言うの?」 「興。関興」 先生は自分の子に、そんな素敵な名前をつけたのか。カンコウという名の響きに比べると自分の名前がいかにも安っぽく思えてくる。 「あんたは?歳は?」 「僕は平。歳は16だけど」 16と聞いて傍目にもはっきりわかるほど顔色が変わった。 「え?…スンマセン、オレ、その…」 多分僕が自分より年上と知って動揺しているのだ。 「気にしないでいいよ、僕よく歳下に見られるし。興くんはいくつなの?」 彼は興、でいいっスと前置きして14だと言った。 「平サンは新しい家政夫なんスか」 「ううん違うよ、今日は廖化さんはお休みなんだ」 「じゃあなんで親父ん家に」 まさか君のお父さんにヨメ入りしてまして、とは言えない。離婚した父親が、自分という実子がありながら養子をとっていることさえ年頃の子にはショックだろう。どう説明したものかしばらく迷ったがどうせ隠し通せないと腹を決めた。 「…関先生にお世話になってるんだ」 「最近?だよな。正月にはいなかったし」 「うん、夏休み前ぐらいから」 「世話に、って居候なのか?」 「いや、その、君ぐらいの歳の時に先生に心臓の手術してもらったんだけど…その時の縁で、今は先生の養子に」 彼がすう、と息を詰めてまるで部屋の温度が2、3 度は下がったかのような緊張が流れた。ほーら言わんこっちゃない、と頭の中でもう一人の僕が囃し立てる。 「…親父の病人ほっとけないタチにあんたが付け込んでんのか?オレや索がいることだって知ってたんだろ?!」 「…」 「お袋だって親父のことであんなに悩んで!オレらのことは 捨てたくせに今度は赤の他人のあんたを囲ってんのかよ、親父は?!」 気がついたら、手が出ていた。ぱん、という小気味よい音がまるで別世界のように遠くに感じた。 「僕のことはどう思ってくれてもいいけど先生のことを悪く言うな」 なんで泣けてきたのかさっぱりわからないが涙が一粒頬を転げ落ちた。興はというと頬を張られたことよりも僕がいきなり怒っていきなり泣いたことに驚いているようだった。…人の顔をいつまでも眺めてないでそのポカンと開きっぱなしの口を閉じろよ。僕はこっそり心中で毒づいた。いずれにせよ叩いた僕が悪いことに変わりはない。手の甲で目元をぐいと拭うとタオルを濡らして差し出した。 「…いきなり叩いて悪かったよ。これで冷やして」 興はタオルを受け取りながらもまだ口を半端に開いたまま僕の顔を見つめていた。 「…何?」 「あんた…泣き顔めちゃめちゃ美人だな」 変人の血はちゃんと受け継がれているようです、先生。 興は僕に平手を喰らったことに関しては全く怒ってはいなかった。むしろ自分の言ったことを謝り、僕が自己弁護せずに先生を庇ったことになぜだかひどく感動したようだった。 「あんたぱっと見より男らしいんだな」 「…そりゃどうも」 「親父があんたを気に入ったの、なんかわかるなオレ」 ご機嫌になった興は、また僕を『あんた』と呼んでいることに気付いていないようだ。僕は何て呼ばれようがあまり気にはならないがさっきはあんなに動揺してたのに、と思うと可笑しい。そのまま興は自分のことやまだ小学生の索という弟のこと、母親とケンカになり今日連絡もなしにここへ来たことなどを上機嫌でしゃべり続けた。 「なあ、今日オレと一日遊ばねぇ?暑いしプールとか、どう?」 「いや、プールはちょっと…」 「なんで?男二人じゃ嫌だからか?」 急に僕に懐きだして最初はわからなかった興の幼さがだんだんと見えてくると、自然と気持ちが和む。弟ってのはこういうもんなのか。 「昔、心臓手術したって言っただろ?先生のおかげですっかり良くなったんだけどさ、ここに」自分の左胸を指差して言う。「結構大っきい傷跡あるからさ」 興は僕が指差した場所を食い入るように見つめている。イヤイヤ、ティーシャツそんなに見つめたって見えないから。しばらく思い詰めたように黙りこんだ後、興は言った。 「…その傷跡、見せてくんない?」 何のために?偉大すぎて遠い、憧れの父親が残した仕事の痕跡が見たいのか?それともただの傷跡への興味?あんまり考えたくないけどあの関先生の実の息子だから油断は禁物な気もする。 「…いいけど」 結局拒否する理由が見つけられず、僕は渋々検診の時のようにティーシャツをまくり上げた。興は無言でじーっと傷跡を眺めていた。確かに珍しいことは珍しいと思うけど、傷跡なんて眺めて何がそんなに面白いのか。 「ねぇ、もういい?」 「や、まだ。もうちょっと」 ふう、とため息をついて僕はまた居心地悪さと戦う。よそ見をした瞬間、興が傷跡を指先でつついて僕は悲鳴を上げた。 「うわっ!!や、や、やめろよ!」 「アハハ、ごめん、なんかすげーキレイだなぁと思ってさ」 カエルの子はカエル。油断した僕が馬鹿だ。 「もうお前帰れよ!先生には今日お前がいきなり来たこと内緒にしといてやるから」 「えー、オレはまだあんたと一緒にいたい」 「ば、馬鹿なこと言ってないで!ほら早く帰ってちゃんとお母さんと仲直りしろよ」 僕が興の背中をぐいぐい押して玄関まで無理矢理連れていくと、チェッと舌打ちしながらも長居は諦めたようだ。靴を履きながらニヤニヤ言う。 「なあ、兄ちゃんて呼んで欲しい?アニキの方がいい?」 「そんなのどっちでもいいよっ」 正直、照れた。 「照れてんの?顔赤いよ。あんた結構カワイイね」 「ば、ば、馬鹿!もう来んな!!」 「うん、今度は親父じゃなくてあんたに会いに来るよ。オレあんた気に入ったし」 恥ずかしいことを平気で口にできるのが関家の血なのか?僕が口をぱくぱくさせている間に興はわざとらしくチュ、と投げキスをしてみせると反撃すらさせないすばしっこさでドアの向こうに姿を消した。 …ホントにあのませガキは14歳なのか?歳は疑わしくても、興が先生の子であることは疑う余地もないが。どうにも厄介な人種に好かれる性質らしい自分の運命に、僕は一人嘆息したのだった。 |