ドMなペットを飼いませんか?
       番外編 今日のわんこ ホワイト〓家族
           えにしだふう様 ご投稿作品
 
 
 2月14日に女子社員から貰ったチョコレートを、会社のロッカーに入れたまま忘れていた。チョコレートと言っても女子社員一同からです、と前置きしながら全員に配っていたから、いわゆる義理チョコだ。
 ほぼひと月も経ってからやっと思い出したのは、同僚がホワイトデーなんて無くなればいいのにとかなんとか、そんな話をしていたおかげだ。
 表の紙を剥がしてみれば、透明なプラスチックの箱に入ったペンギンやイルカなど可愛らしい海洋生物の形をしたチョコレートで、最近買ってやった「うみのいきもの」という図鑑の写真を眺めるのにハマっている平がいかにも喜びそうだと、そう思った。

「父上!」
 お帰りなさいの言葉の代わりに飛びついてくる平を抱き留めてやる日課は、平にとってだけでなく関羽にとっても大袈裟に言えば互いの愛情を確かめ合う欠かせないものになりつつある。
「うむ。今帰った」
 ふふ、と嬉しそうにその柔らかい頬を関羽の頬に擦り寄せる平を抱き締めてやると、どこか乳臭いような陽を浴びた干し草のような匂いがした。朝、出勤前に髭を剃ってから12時間は経とうとしている。伸びかけた髭がざらつく頬など、自分の手で触ってもチクチクとして決して手触りの心地好いものではないのに、平は飽きずに関羽の頬に自分の頬をくっつけてはうふふ、と笑っている。ふさふさとしたしっぽがパタパタ揺れて、嬉しくてならないらしい。

「平、今日は良いものがあるぞ」
 そのぴんと立った犬耳がピクッと動いた。
「父上、ほんとですか?」

 最近特に、関羽がそうしろと教えたわけではないのだが平は関羽に対して敬語を使う。とはいえ、多分平は就学前くらいの年だろうから、敬語を使うとは言っても彼にとっての精一杯の丁寧な言葉遣いという意味だが、その一生懸命さがたまらなく可笑しい、否、いとおしいので放ってある。
 関羽は抱いていた平を下ろすと鞄からチョコレートの箱を取り出して、渡した。
「…ほわぁ…」
 漫画的に言えば瞳の中に星がある状態だ。
「ち、父上、これ…」
「こういうのは初めて見たか?」
「あの、あの…平、てれびでみました」
 日中留守番の間、可哀想ではあるが平の子守りをしてくれているのはテレビだ。その時期には散々チョコレート売り場の様子も見ただろう。
「ち、父上、かってくれたですか?!」
「ん?」
 平はチョコの箱を大事そうに胸に抱き、興奮して言った。
「てれび、ちょこれとはだいすきのひとにあげるっていいました!父上、平にかってくれたですか?!」
「あー…」
 ここまでの喜びようは予想外だ。これでは女子社員に貰った、しかも忘れていて賞味期限もギリギリなチョコレートだとは言いづらい。
「…まあ、そんなようなものだ」
「父上!」
 平は目を潤ませて関羽の腕を引き関羽を屈ませると、柔らかい唇を押しつけてきた。ちゅ、ちゅ、と何度か口づけた後、一転その大胆さがまるで嘘のように恥じらい、もじもじしながら小声で「父上、ありがとござます」と言う。

 全く、(拾った子だが)我が子ながら驚くべき反面性というか魔性っぷりだ。
 俺の育て方がいいんだろうなとニヤリ、関羽はひとりごちた。



 デザートはご飯をきちんと食べてから。
 関家のルールは徹底している。元々平は我が儘を言わない子だが、今日ばかりは親子どんぶりを掻き込むスピードが尋常でなかったから、よほどあのチョコが気に入ったのだろう。いかにも早く食べたくて仕方ない様子だった。
「ごちそさまでした!」
 口の周りをベタベタに汚した平が、もみじのような手を合わせて高らかに宣言した。
チョコレートの箱を両手で抱え、早く早くと関羽にせがむ。関羽がテープを剥がして箱を開けてやると、平は「ありがとござます!」とそれを受け取り、一番大きなイルカの形のチョコレートを掴むとあんぐり口を開けたところで、はた、と動きを止めた。
「どうした」
「…あの…父上、ほしいですか?」
 咄嗟に吹き出すのだけはこらえたが、あまりに可愛らしい気遣いに顔が緩む。
「お前が食べればいい」
「でも…」
 甘いものは元々それほど好きではない。
 しかし平は自分だけがチョコレートを食べることがよほど気兼ねするのか、なかなかイルカに口をつけようとしない。イルカの胴は握りしめた手の温かさで溶けかけていた。
「そうだな、なら俺はこれをもらおうか」
 箱の中で一番小さなチョコを指差すと、平は表情をぱあっと輝かせた。
「父上はぺんぎがいちばんすきですか?!」
「うむ。まあ、そうだな」
 平はイルカのチョコレートを思い切り頬張り、その大きさにうまく口が閉じないのかハフハフ言いながら、嬉しそうに小さいペンギンのチョコを摘まみ、関羽の口元に近づけた。
「あい、父上、あーん」
 関羽に口を開けるよう要求する。今でこそ平は一人でなんとか食事ができるが、始めの頃に関羽がしてやったことを真似ているのだろうか。可愛らしい仕草に、ちょっといたずらをしてやりたくなり、チョコに食いつくついでに平の指先までパクりとくわえ小さな指に絡みついたチョコレートを舐めとってやった。
「やん!父上ぇ…」
 くすぐったそうに笑う姿は幼いくせにどこか妖しい香りがする。それはまるでいつぞやしっぽの付け根に触れられて身体を熱くしていた時の平のようでもあり、このまま安穏と眺めていては腹の底に封印したはずのあの気持ちを揺り起こしそうで危ういとさえ関羽に思わせたのだった。



 その後、関羽が夕刊を広げるソファの足元で平は「うみのいきもの」を広げ、チョコレートと挿絵をひとつひとつ見比べながら楽しそうにしていたが、ふと横を見遣ると平がうずくまりぐったりしている。一瞬ひやりと胸の奥が冷えた。
「平、どうした」
「…父上…」
 呼吸は浅く、苦しそうに涙目で見上げてくる。額に手を当ててみても熱があるわけではない。平は体を丸め、腹に両手を当てていた。
 「…腹か?腹が痛いのか?」
 平は黙ったままウンウンと頷いた。
 すぐに暖めてやり腹を摩ってやったが、トイレに連れて行っても腹を下す様子はないし吐き気があるようでもない。

…夜間外来に連れて行くべき…か?

 平を拾った日以来すっかり忘れていた重大な疑問が、今まさに目の前に立ち塞がっているのだ。
 彼を人間の病院に連れて行くのか、はたまた動物病院なのか。
 気持ち的には動物病院はあり得ないのだが、人間の病院だとしても獣のような耳としっぽが生えた平の姿を好奇の目に晒すのは許しがたい。考えあぐね、とりあえず電網世界に何かしら対処法なりヒントが落ちているかもしれない、と思いついた。
 こんなにも具合が悪くても関羽を困らせまいと声を噛み殺し、ぐすぐす小声で泣く健気な平を抱いたまま、育児関係のサイトを、そして念のためとペットの体調不良についてのページを開き。

「…チョコレート…」

 その単語が目に飛び込んできた。

…いや、しかし今までも平はチョコレート菓子を食べて何ともなかったはずだ。

 犬猫を始め、動物には葱類、アボカド、チョコレートなどを食べさせてはいけない、とある。

…いやいや、しかし今までも平はチョコレートだけでなく、オレと同じものをずっと食べてきて何ともなかったはずだ…が。

 しかし一度心に巣食った不安は、ますます暗雲のように不気味に胸の内に立ち込めていくのだった。



 結局悩んだ末、こうなってはかの人物を頼る他ない、と結論した。関羽の全く個人的な心境としては彼に借りを作るのは非常に気分の良いことではないが(実のところ、相手がどんな人物であれ一切借りを作りたくない性分なのだが)。
 平のためだ、と関羽は携帯電話を取り上げた。



 おやおや、と驚いた表情を見せた後、彼は「電話ではウチのが、とおっしゃったので例の子犬ちゃんを連れてみえると思っていましたが」と言った。
 ここまできて隠しおおせるはずがないし、平のためにも隠すことにメリットはない。何せこの状況では諸葛専務とその細君だけが頼みの綱だ。
 関羽は平に被せていたコートのフードを取った。
 諸葛専務は再びおやおや、と目を見開いた後、平の犬耳については何も聞かず、ただ「さ、どうぞ」と自宅隣りの診療所に関羽を案内したのだった。


 諸葛夫人は医師だと聞いたことがあった。そしてかつて諸葛専務には犬の躾について尋ねた経緯があり、確かに彼は一癖も二癖もある人物ではあるが関羽も一目置く切れ者で、口の堅さに関しては間違いがない。結局、診療時間外を承知で諸葛専務に奥方に平を診察してもらえないかと頼み込み、連れて来ることになったわけだ。夫人も平の犬耳としっぽには驚きを隠せない様子だったが、さすがは医師というべきか、具合の悪そうな平の様子にすぐにてきぱきと診察を始めてくれる。ありがたいことだった。



 平を任せている間、関羽は別室で珈琲を挟んで諸葛専務と居心地悪く対峙していた。
「…」
「…」
 毎日会社で顔は合わせているが、自分のプライベートについてはほとんど話したことはない。犬の躾云々が最初で最後と言ってもいいくらいだ。

「…で、彼は何者なんですか?」

 何者、なのか。

「…わからない」
「以前、子犬の躾のことで私にお訊ねになりましたね」
「そうだな。あいつを拾ったすぐ後だ」
「なるほど。ではあの時お訊ねになったのはあの子のことだったんですね」

 ちょうどその時諸葛夫人が平を抱いて部屋に入ってきた。平は関羽の姿を見つけるなり、「父上…!」と両腕を伸ばしてくる。関羽は諸葛夫人の腕から平を受け取り抱き上げてやった。
「もう大丈夫なのか?」
「ええ、もう心配はいりません。ちょっと胃に負担がかかっていたみたい。夕飯は何を食べさせました?」
「親子どんぶりだが…何かまずかったか」
 不安そうに関羽と諸葛夫人の顔を見比べていた平が、関羽を庇うように口を挟んだ。
「ごはんいつも父上がつくてくれます!」
「いえいえ大丈夫、何かが悪いと言っているわけじゃないのよ。量はいつも通りでした?」
「いつもと同じだが…そういえば平、お前今日はずいぶん急いで掻きこんでたな」
 平はばつが悪そうな顔をした。
「だって…ちょこれとが」
「チョコレート?平ちゃん、チョコレートを食べたの?」
 平は相変わらず悪いことを叱られているとでも思っているのか、申し訳なさそうにコクリと頷く。
「父上くれたおっきいいるかのちょこれと」
 諸葛専務には「イルカのチョコレート」というキーワードで事情がすべて飲み込めたらしい。相変わらず油断のならない人物だ。彼は平に尋ねた。
「…もしやイルカだけでなく他にも?」
 平は誇らし気に答えた。
「いるかと、あざらしと、あかうみがめと、しろくま!」
 これには関羽も驚いた。
「お前いつの間に全部食べたんだ?」
「あのひと箱を一気に食べたんですね…」
「それなら、ま、単なる一時的な食べ過ぎね」
 会社で配られた義理チョコだ。当然諸葛専務も同じものを自宅に持ち帰り、もちろん夫人もそれを知っているのだろう。関羽も含め事の顛末に大人たちがみなやれやれと肩を落とす中、すっかり元気になった平だけが一人「父上はぺんぎがいちばんすきですよね?」と「うみのいきもの」の話を続けていたのだった。