愛が始まる日

           朝日の案山子様 ご投稿作品



「・・・父上?」
 か細く頼りない声で、関平が関羽を呼ぶ。


 関羽の真意を確かめようと、関平は勢い込んで関羽の邸に急襲をかけた。今回も突拍子のない行動だが、時間はごく常識的な夕方の五時すぎであるし、服装も普通で、いらぬ手土産も下げてはいない。これが普通なのだが、今までの紙一重な行動を元にしていると、今の『普通』の方がおかしな気がしてくるのだから不思議だ。
 召使い達は、特に咎めたてもせずに中に入れてくれた。ただし関羽将軍は、今はお仕事の最中でいらっしゃるから、声を掛けるなと言われております、と関平に告げた。それならばそれで構わない、お仕事が終わるまで何時間でもお待ちしよう。健気もここまで行くと粘着質だが、召使い達もなれたもので放置を決め込み、自分達の仕事に精を出しているようだ。さすがあの関羽の元で勤めている者達、器が違う。


 待つ事はさほど苦にはならなかった。父と同じ空気を吸っているというだけで嬉しく、何時間でも何日でも何年でも待てる気がする。色々問題点はあるが、関平の気質というものは総じて良く、謙虚で素直である。だからこそ、とかく個性の強い『家族』の中で、彼は何とかやっていけているのであろう。

 二刻ばかり経っただろうか。夕餉の時間もとうに過ぎ去り、子供ならばもう寝ていてもおかしくないような時間になった。召使い達は特に動じもせず、『お腹が減られたらお声を掛けられるでしょう』と、これまた放置を決め込んでいる。彼らの方がよっぽど自分より肝が据わっている、と関平は思った。
 急いていた訳ではない。しかし、廊下に控えていた関平の耳に、ちょっと聞きなれない音が聞こえてきたので、彼は立ち上がったのだ。



 行儀が悪いと思いながらも、部屋をこっそり覗き込んでみれば、文机に突っ伏したまま、寝息を立てる父がいた。





 父の寝顔を見るのは初めての事だった。側仕えの小姓よろしく、関羽の世話を焼く事を楽しみにしている関平であったが、父はなかなか隙を見せてはくれなかった。聞いてみれば、彼の数多い愛人の中でも、寝顔を見た事のある女性は殆どいないらしい。唯一正妻殿が見た事があるらしいが、彼女に聞いても、『特段面白いものではありませんわ』と、これまた余裕の言葉が返ってくるだけ。養子に迎えられて短くない時間が経ったが、結局、関羽の寝顔は関平にとっては謎のままなのだった。
 いや、父は神であるから、眠らないのかも知れない。眠らずとも、世の動静の全てを知り、蜀の守護神として昼夜を問わず目を光らせておられるのだ。よくよく考えてみれば、このような考えなど、フリル短パン姿並みに突拍子もない事なのだが、関平は半ば本気でそう信じていた。人を理想化すると、それが裏切られた時の衝撃というものは物凄い。しかし幸か不幸か、関羽は今まで関平の理想を裏切った事がなく、故に関平は父に失望する事がないのであった。というよりは、関羽のどんな姿を見ても、関平の脳内で補正がかかってしまって、『やはり父上は素晴らしい』と変換されているのだろう。

 果たして、神である筈の関羽の寝顔を見た今もそうであった。



「父上、父上・・・。」
 父上がこのように無防備に眠られているなんて。黒髭が床にとぐろを巻き、決して寝心地がよくないのだろう、時折顔を顰めたりする父を見ながら、関平が思っていたのは実に馬鹿馬鹿しい事だった。

 父上は、眠られていても格好よろしい。



 随分と幸せな思考回路であるが、関平にとっては『父上は格好いい』ではなくて、『格好いいのは全部父上』というある意味倒置法が成立しているのだから、仕方が無いのかも知れない。彼の価値基準は、父が彼に与えるものであったし、また関平自身がそう望んでやまなかった。好き、という言葉だけでは片付けられない程に父が全てで、それだけで、だからここまで歩いて来た。



 だが、と関平は思う。一連の行動の中で、初めて関平は己のやり方に疑問を抱いた。父がこうして眠る姿さえ、自分は見た事がなかった。関平の目に映る父はいつでも偉大であり神そのもので、所詮人の子である自分など、近づけないものであるように思っていた。それがたまらなく寂しくて辛くて、血の繋がりもない自分であるから、他の方法で側にいたいと願ったのだ。



 だが、父の真意はどうだろう?




 寝顔さえ見せず、常に完璧でありつづけた関羽の真意とはどうだったのか。それは勿論彼自身の、超人的な努力による所も大きかろう。しかし、正妻の前で見せる表情や義兄弟の前で見せる表情、その一端さえも、関平は垣間見た事がなかった。それが即ち、父の答えだったのではあるまいか。父にとって心許せるのは、恋愛感情を越えた深い絆で結ばれた、ほんの一握りの人間だけではないのか。完璧な顔を見せ続けるという事が、即座に『心を許していない』訳ではないという事を理解するには、関平は幼すぎまた馬鹿すぎた。となれば、結論はひとつだけだ。


 父上は、拙者の事を慈しんでは下さる。しかしそれは決して、心をお許しになっている訳ではないのだ。



 そうと思ってしまった瞬間、関平はひどい後悔の念に襲われた。父の気持ちが悲しかったのではなく、父の気持ちを汲む事が出来ず、暴走して結局迷惑を掛けてしまった自分の愚行に呆れたのだ。関羽はこう見えてやさしいから、これからも自分を邪険にはなさらないだろう、と関平には分る。しかしそれが何の救いになろうというのか。報われない恋には優しさなど、何の効用もない。そしてその感情自体が、自分にとっての全てである人を困らせるものならば、持っていていいとさえ思えなかった。蓋をするだけでは、足りない。金輪際忘れきってしまい、捨て去ってしまわねばならぬ想いだ。例え自分の恋心が、どれほど泣いて、どれほど悲しもうとも。


「・・・父上、申し訳ありません。拙者は至らぬ息子です。でもせめて・・・。」

 ただ、一度だけ。




 触れるだけの口付けが、寝苦しそうな関羽の唇に降った。











 何やら背中が重い、と感じた関羽が目を覚ましたのは、既に日付が変わる時間だった。文机の上の墨はすっかり乾き、筆もかぴかぴになっている。手習いをはじめたばかりの子供でもあるまいし、と、非常に珍しい事ながら、彼は自嘲の息を吐いた。確かに近頃、疲れはたまっていた。仕事もそうだが、主に私生活の疲れだ。しからばこの背中の重みも、それ故だろうかと寝惚けた頭で思ったが、瞬時にそれを否定する。そんな訳あるか。
 体を捻って器用に背中を見てみれば、一体どういう経緯があったのだろうか、養子が背中におぶさって寝息を立てていた。いつの間に来たのだろう?

 執務中、しかも『声を掛けるな』と召使いに言い置いておけば、彼らは来客があっても主人を呼びに来ない。唯一の例外があるとすれば、それはたった二人の義兄弟だけだ。彼らの訪いだけは、何をおいても優先するし、召使い達もそれをよく心得ている。となれば、関平が訪ねてきたのを、関羽が知らなかったのも無理はない。


 しかしそれにしても、一体何があって、関平は拙者の背中で眠っているのだ??



 完全に寝入っていたらしい関羽には、本当に皆目見当もつかない。涙のあとを残しながらも、それでもすっかり夢の中にいるであろう息子の体温は存外に高く、まるで幼子を連想させた。そしてそんな風に感じてしまえば、『重い、起きろ、何を考えている』と叱り飛ばす事は如何にも鬼の所業に思え、関羽を躊躇させる。
 我ながら甘い事だ、と関羽は一つ溜息をついた。馬鹿で阿呆で考えなしで、とりえといえば愚直すぎる位素直な所と謙虚である事位だが、関羽はどうしても関平が可愛い。子犬のように尻尾を振ってついてくる関平が、関羽には可愛いのだ。
 

 体をずらすとずり落ちてしまいそうな関平を、何とか関羽は支えた。子供か、若しくは姫君を抱くように横抱きし、関羽は立ち上がる。それでも一向に目を覚ます気配のない関平を、自分の臥牀に横たえた。苦しそうな寝息と、顰めた眉。それは先の関羽自身のそれとは、大分意味合いが違うのだろう。
 突拍子なく珍妙な息子の行動に、関羽はかなり戸惑ってはいた。しかし何故だろう、と関羽は思う。



 父はそれを、不愉快には思わなかったのだぞ。





 どこに落とそうか少しだけ迷った唇は、関平の額に優しく降りた。












 彼らは互いの行動を知らない。何も変わっていない父と子の関係のままの筈だ。だが何かが確実に変わった事を、夜の闇だけが知っている。