足ながおじさん
           えにしだふう様 ご投稿作品
 
 
 僕は子供の頃運動ができない子だった。別に運動オンチというわけじゃない。むしろ走ることは好きだ。好きというよりは憧れかもしれない。思うまま走ったり跳んだりこんがり肌を焼くことへの。
 僕の心臓が生れつきの疾患を抱えていたせいで、僕は色白で痩せ気味で地味な性格に育った。(ある人は性格は関係ないと言うが。)特別親しくする友達もなかったから、中学一年の春に両親が呆気なく交通事故で他界して頼れる親戚もなく施設に入るため転校することになっても、ありきたりな言葉にまみれた色紙の他になんの思い出も持たなかった。ただ自分は独りであるという事実を腹の中に閉じ込めただけ。施設に移ってすぐに、日本でもかなり有名らしい一人の外科医によって僕は『普通』を手に入れた。もちろん僕には心臓手術を援助してくれるような人もないが、珍しい症例であること、研修医の執刀があること、新薬の臨床に協力することなどに加えて何故か外科医本人による格別の厚意で僕の心臓は爆弾の名を返上した。
 有り難い、とは思う。だけどやっぱりどうしてもわからない。何故僕にそこまでしてくれたのか。数々の条件は、莫大な手術費用をカバーし得るものではない。しかも看護婦さんから聞き出したところによると先生は僕以外の患者に慈善的な治療などは一切しないらしい。手術や講演に世界中を飛び回る先生本人と直接会って話したのは手術前に一度だけで、僕には先生どんなつもりなのか知りようもなく。ただ手術後の体調や日々の生活を簡単に綴り感謝の言葉を添えた手紙だけは毎月欠かさぬように出し、それは高一になった今でも続けている。先生にとってはどうということのないつまらぬ物に違いないし、もしかしたら届いてすらいないかも知れないが。
 僕は、先生のことを何も知らない。なのに先生は僕のことを、僕の知らない内臓の隅々まで知っている。まるで足ながおじさんだ。そしていつか足ながおじさんは少女を迎えに来るのだ。彼女を妻とするために。その日はある雨上がりに唐突に訪れた。

 ある日高校の正門前に、いかにも高級そうな黒のレクサスが停まっていた。昨日からの雨も上がり今はただ邪魔になったビニール傘をぶらぶらさせながら、僕は町外れにある施設方面行きのバス停まで歩こうとしていた。レクサスの横を摺り抜けようとしたとき、おもむろに運転席側のウインドウが下がりヒゲ面の男が顔を出した。
「ボウズ、県立東高校はココか?」
 屈強な体を黒いスーツに押し込めたヒゲ面が高級車の中から自分にいきなり声をかけてきたら誰でも驚かないだろうか。僕が傘をポトリと落とすと男はあんまりオレが男前で驚いてやがる、とガハガハ笑った。とても品性のある笑い声ではないがかと言って悪人のようにも見えない。格好は一見ヤクザの印象だが、男の笑った顔の人懐っこさはいとも簡単に僕の警戒心を揺るがした。
「そうですけど、あの…?」
 僕が次に何を言うべきかと逡巡していると、外からは全く中の様子がわからなかった後部座席のドアが開き、ヒゲ面の男を更に凌駕する体格の男が姿を現した。
「…久しぶりだな」
 平均より多少は高い身長のはずの僕を見下ろし、目を僅かに細めて言う。
 誰だ…?知り合いか?僕の脳みそがフルスピードで検索をかけている間に、口は勝手に動いていた。
「…先生…」
「三年ぶりか。よく俺の顔を覚えていたな」
「は、はい」
 関先生は綺麗に整えられたあごひげに手をやりニヤリと笑った。
「平、お前からの毎月の手紙、楽しみに読んでいるぞ」
 僕が頬がカッと熱くなるのを感じた。先生が僕の耳元に唇を寄せてまるで睦言のような甘い声で囁いたのだ。まるで僕が先生にラブレターでも出し続けていると言わんばかりの、微かな色を秘めた囁きに鼓動が速まる。手術前なら確実に胸を締め付ける痛みを呼んだ速さだが、あいにく先生本人のおかげで今ではこの程度なんともない。
「きょ、今日は何の御用で…」
 焦って声がひっくり返った。
「うむ、お前の学校を見てやろうと思ってな」
「学校を…?」
 関先生はフン、と鼻で笑った。そんな仕草すら僕には嫌味には見えず純粋に格好良い、と思ってしまう。
「お前の手紙では特に楽しくもない高校生活なようだからなんなら都内の私立高校にでも編入させてやろうと思ってな」
 始め、何のことだか本当にわからなかった。
「…そっそんなことはないです!楽しく通ってます!!…っていうか、じょじょ冗談ですよね当然…?」
 億とも言われていた僕の手術費用を『厚意』の一言でポンと出した関先生だ、やりかねない、と僕は更に焦った。あたふたする僕を見てくつくつと笑いを噛み殺すと、先生は「まあ、いい。お前の住んでいるところを案内しろ」と、僕をレクサスの後部座席に押し込んだ。
 かくして男三人の奇妙なデートが始まった。僕はまっすぐ施設に帰る道案内をすればよいと思っていたのだが、先生は僕が毎日使うバス停に、同級生の間であんみつが美味いと噂の甘味処に、僕が普段着を買いに行く大型ショッピングモール内まで案内させた。もちろんどこへ行ってもヒゲ男と体格の良い関先生と制服のままの僕の組み合わせはひどく目立って恥ずかしい。でもそれ以上に初めて関先生と長い時間を過ごしてこそばゆい気持ちの方が大きかったし、先生の男らしい優しさとヒゲ男(先生は男を翼徳と呼んだ。ヒゲの方では先生をアニキと呼んでいたが実の兄弟ではないらしい)の気さくな性格に、僕はこのデートをしっかり満喫した。なぜだか通学用にと決して安くはないニューモデルの腕時計まで買ってもらい、帰りの車内では僕はすっかりリラックスしていた。ようやく躊躇わずに話し掛けられるようになった先生に、改めてお礼を言いたくて口を開く。
「先生、とっても楽しかったです。僕、来月の先生へのお手紙に今日のことばっかり書いちゃいそうなぐらい」
 自分の声が初めて聞くような甘ったるさで、関先生にそこまで甘えている自分にまたもや頬が熱くなった。幸い先生の気分を害することはなかったようだが。先生は僕の隣でまたあごひげに手をやったままニヤリとしてみせる。
「…かわいいこと言ってくれるじゃないか」
 口許に笑みを浮かべたままスルリとこちらへ流された視線に心臓が跳ねた。本当に、男の僕でも格好良いと惚れ惚れする関先生には、当然美人の奥様とかわいい子供たちがいるのだろう。僕は続けて尋ねた。
「先生は、お子さんいらっしゃるんですか?いつもこんな風に一緒にお買い物してらっしゃるんでしょう?」
「いや、子供はいるが一緒に出かけたことはないな」
「え?」
「離婚したからな。もう何年も前だが」
「!!…す、すみません、失礼なことを」
 先生はさも面倒臭そうに手をひらひらさせた。
「謝るようなことじゃない」
「でも…」
 運転席のバックミラー越しに翼徳のおじさんが目配せしてみせた。
「アニキが年中忙し過ぎて家に帰らねぇもんでお嬢の奥さんは子供連れて実家に帰っちまったのさ」
 家族を犠牲にしなければならない程忙しい人が、僕なんかとお茶したりショッピングしちゃっていいものなのか。翼徳おじさんはニヤニヤしながら続ける。
「ま、アニキは平がお気に入りだからな」
「え…?あの、ほ、本当に…?先生、本当ですか」
「…」
 先生は何も答えず口をへの字に曲げて翼徳おじさんを睨みつけたが、その様子からは余計なことを言ってくれるなというのがありありと伺えて、僕は関先生のお茶目な一面にかえってリラックスした。

 …先生が僕をお気に入りって。

 両親を亡くしてから一度も感じる機会のなかった他人からの愛情に、僕は戸惑いつつも嬉しさを隠せなかった。自然と頬が緩む。車が施設に到着してもなお、ほこほこした心地は続き、僕は僕に宛がわれた一人部屋まで関先生を連れて入った。翼徳おじさんは腹が減ったと食堂へ親子丼を食べに行ったっきりで、四畳半の極狭部屋に先生と二人でお互い何も言わずにただ座っていた。しばらくの静寂の後に先生が言った。
「…平、俺のところへ来い」
 僕はゆるゆると顔を上げて先生と見つめ合う。
「…関先生…」
嬉しいかと言われたら、弾けそうなぐらい嬉しい。でも先生の今の言葉は僕を養子にってこと?それって『お気に入り』の範疇を越えていないか?
「なんだ、嫌なのか?」
「いえ、いえそんなことは。とっても嬉しいです。でも…あの、どうして?」
「どうして、か。…それはまあ翼徳の言った通りさ。お前を気に入っている」
「でも、あのっ…!き、気に入っていただけるのは嬉しいですけど、それだけで僕を養子に…?」
「平、お前俺の養子になりたいのか?」
「は?…えっと、違うんですか?」
「俺は俺のところへ来いと言っただけで養子に来いとは言ってないぞ。お前がどうしても俺の子になりたいってんならそれでもいいが」
「養子じゃないなら何に…」
 先生には聞こえないように口の中だけで呟いたつもりだったのにしっかり聞かれていた。しかもしっかり返事が返ってきた。それもとびっきりぶっ飛んだ言葉が。
「そりゃヨメに、さ」 

いくら関先生が僕を気に入ってくれて僕も関先生が大好きだとしても、それにいくら命のご恩があるとしても、さすがに僕のちっぽけな良識にとって『ヨメ』は許容範囲外で、僕は関先生のニヒルな笑みから目を離せぬままみっともなく唇をわななかせていた。
「…」
「そうだな、一学期の終わりまではとりあえず今の学校に通え。引越しは夏休みでいいな。新しい学校は男子校にでもするか?やっぱり共学が好きか?お前、勉強の方はどうなんだ。そこそこはできるんだろうな」
「…ちょ、ちょっと待って下さい!!」
 僕は必死で遮った。
「ヨメって!!」
「何か問題があるのか?平、お前料理ぐらいできるんだろ。ま、できなくたって家政婦が居るから心配はいらんがな」
 イヤイヤそういうことじゃなしに!!
「料理はできますけどそういうことじゃなくて」
「掃除も洗濯も家政婦に任せておけばいい。うむ、そうだな高校も大学も家から通える距離で選べよ」

大学…。両親を亡くした時にとっくにあきらめたはずの夢を再び目の前に差し出されて、僕は動揺した。施設に世話になっているということはつまり生活費も学費も税金から出てるってわけで、もちろん育英会に借金すれば大学進学は不可能ではなかったが僕は半ばあきらめていたのだ。
「…大学…」
「この関羽の妻だ。お前が行きたければ院まで出れば良い。それとも何だ、アメリカの大学にでも行きたいのか」
「!!…いえ、あの国内の学校で充分です…」
「じゃあこれでだいたい決まりだな」
 ちょっとちょっと!!結局ヨメってどういうことだ?!
「あの、先生、養子とヨメってどう違うんですか」
「ふん。子供は親を選べんだろうが。お互いがお互いを気に入って一緒に居るのが夫婦だろ」
「ああ、なるほど。って何納得してんだ僕は!」
 激しく一人ツッコミをしながらも僕はしつこく食い下がった。
「せ、先生、でもヨメって、僕は男ですよ?!」
「何だ、そんなわかりきったことを。男では何か問題があるのか」
「…うぅっ…」
 …敗北。結局僕はそれ以上言葉が見つからず。関先生の「転校の手続きのために戸籍上は俺の子になってもらう」という言葉もあって、というか僕には先生を止めることなんてできなくて、とりあえずはヨメの件についてはもう何も言わないことにした。帰り際に先生が「平、お前は俺のもんだからな。覚えておけよ」とわざわざ言い残して帰っていったのが気になると言えば気になるが。
 …まさかヨメって、その、先生の夜のお相手もってことはないよな…。一瞬過ぎった不安を無理矢理薙ぎ払い、僕は布団を頭から被った。
 
 
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