足ながおじさん4 |
えにしだ |
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先生が行ってしまってしんとした部屋で、僕はしばらくじっとしていた。起きて何かする気も起こらなくてもう一度布団に潜り込むと、すっぽり先生の匂いに包まれる。 「…そういえば」 先生の匂いで先生が僕の背中にした悪戯のことを思い出した。もぞもぞ起き出して洗面台の大きな鏡で自分の背中をかえりみると。 うわ…。 なんだこの恥ずかしさ。内出血するほどのキスの跡が、つまりキスマーク。僕はその時初めて知ったのだった。 一度自分の背中を見てしまうともう、目につくわけではなくとも背中を晒していることに耐えられず慌てて服を着た。引越し業者の段ボールから服を引っ張り出すと、今度は他の服も段ボールのままでは良くない気がしてきて廖化さんが来る10時まで朝食も摂らずに片付け続けた。その後廖化さんにも手伝ってもらって服と文具を全て収め終わると、二人でブランチ。廖化さんのサンドイッチは美味しいだけじゃなょっとオシャレだった。先生が毎日こんなの食べてるんだとしたら、僕が何を作ったって貧乏臭くて恥ずかしい気がする。ここに来るまではあんなに意気込んでいたけど。 「大丈夫だよ〜」 廖化さんは愉しそうに言った。 「先生はね、平くんには家庭っぽい感じを期待してるから」 「家庭?」 「そうそう!おかえりなさいっていうあったかい雰囲気」 そういう意味のヨメ役ならできるかもしれない。情けない話だが、廖化さんの一言で自信を取り戻すなんて僕は我ながら単純だ。 午後には二人で出掛けた。先生は廖化さんに、僕にケータイを持たせるように言付けていたらしい。初めてのケータイ。一番最初に登録するのは、もちろん先生の番号だ。真っさらな電話帳に一番に先生の名前。まるで僕の人生そのものじゃないか。早速初メール。無駄に時間はかかるし平仮名ばっかりだし。でも先生への言葉足らずな僕の気持ちを伝えるにはこれでいい、そう思った。 『平です せんせい、ありがとう』 きっとお仕事中だから返ってなど来ないだろうと思っていたけど、意外にもすぐに返信があった。ちょっと悲しい気持ちになってしまう内容だったけれど。 『今、成田でフライト待ち。帰るのは月曜になる。ヘルシンキ土産を楽しみにしていろ』 『お土産なんていらない。だからそんなに遠くに行かないで。早く帰って来て下さい。』 …結局、このメールだけは今もまだ未送信ボックスに残っている。 3時に関先生が僕のために呼んでくれた家庭教師が来るというので、家に帰った。僕は子供の頃思うだけ外で遊べなかった分、勉強は割と好きだし得意だった。とはいえ学校を休みがちだったのでそれが成績に反映されなかったのが残念なのだが。 家庭教師の先生って、どんな人なんだろう。廖化さんはいい人だよ〜とかありきたりな言葉ではぐらかすばっかりで、しまいにはスーパーに行くと出て行ってしまった。一人で家庭教師を待つだけの時間は恐ろしく長い。と、不意にケータイが鳴った。…廖化さんからだ。 「ゴメ〜ン、オレ財布もカードキイも中に忘れて来ちゃった」 オートロックのこのマンションでは致命的なミスだ。…どんだけ慌てて出てったんだ。仕方ない。僕は廖化さんの財布とキイを引っつかむと部屋を出た。 スーパーへの道への真ん中で向こうから歩いて戻りつつあった廖化さんに忘れ物を渡すと、急いで引き返す。家庭教師の先生を待たせていたら申し訳ない。ドアの閉まりかけたエレベーターに滑り込むと、先客が息を切らしている僕を見てくすりと笑った。 「…」 自分の子供っぽさが気恥ずかしかったが、笑われたはずなのに不思議と腹の立たない優しげな男の人だった。清潔感のある白いシャツに知を強調する眼鏡。服装はカジュアルなのにどこか凛とした空気も感じる。 目が、合った。違う。僕があまりにもじっと見つめていたことにその人が気付いただけだ。僕の不躾な視線にもニコ、と余裕の笑みで返される。これぞ正しいオトナの姿だ、と僕は内心唸った。関先生という大きなコドモに振り回されるのも嫌ではないが、僕の理想のオトナ像ぴたりのこの人から僕は目が離せなくなっていた。 見知らぬ人と示し合わせていたかのように進行方向が同じだった時の気まずさは、どう表現すればよいのだろう。 思えばだいたい同じ階のボタンを押していた時点で気付くべきだった。なのに僕はその人をぽやんと見つめたまま、同じ階でエレベーターを下りて同じ方向へ歩き玄関のドアの前で二人して立ち止まった時にようやく理解した。 「…僕の、先生、ですか?」 「そのようだね」 趙雲、字は子龍ですとあまりにも爽やかにその人は右手を差し出した。僕はその手を握り返しながら、手が冷たい人は心が暖かいとかいうあてにならない話を思い返していた。 趙先生にお茶を出しながら、関先生とはどういう関係のお知り合いなのかを恐る恐る尋ねてみる。できればキョドってた廖化さんとも知り合いなのかどうか知りたかったが、それを趙先生に聞くのは憚られたのでその件に関しては後で廖化さんを問い詰めてみたいと思う。 「関平くんは関先生のお兄さんは知ってるかい?」 …初耳だ。イカツイ弟の翼徳おじさんなら関先生と三人でデートまでした仲だが。 「私はね、そのお兄さんの部下なんだ。劉グループは予備校とかマンション幾つかを持ってて」 ああ、なるほど。 「…じゃあ趙先生は予備校の先生で、大学生さんじゃないんですね」 「私を大学生だと思ったの?」 「あの、いえ…家庭教師ってみんな大学生だと思ってたんです…」 自分の田舎者っぷりが恥ずかしくて思わず入る穴を捜した。でも趙先生は僕のカンチガイを笑いはしなかった。ふっと微笑んで言う。 「君はとても素直で正直な子だね。…私は好きだよ」 好きという言葉の真の意図が読めなくてそろりと顔を上げると真っ直ぐこちらを見つめていた趙先生の視線と思いっきりガチあった。そのまま何か強い力に抑えられたかのように視線が外せなくなる。 「…あ…」 な、なんだこれ…。趙先生の整った顔に、優しげに微笑んだ口許に、心の底まで見透かすような強い視線。…なんでこの人はこんなに僕を見つめてくるのだろう。視線に酸欠を起こしながらぼんやりそんなことを考えた。 |
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